東北慰霊団参2(2013年3月、26日・27日)

さて二日目は午前8時、ホテル出発。「大川小学校を目指します」。
ガイドさんも、この学校の名前を口にするだけで涙・涙となるというほど。
悲惨な現場の一つであると語っておられました。

この写真、被災地に入る前は「町並みが津波で流される前と後」の平面な視覚情報のみ。
それが現地に足を踏み入れバスガイドさんの語りを聞いて帰ってきた今。
この単なる比較写真から聞こえる物語をここに紹介してみようかと。

パンフレットの写真の様に学校(写真中央の「6の字」みたいな建物が小学校。)
を中心に並ぶ町並みが、下の写真の様に土だけになっております。
そして写真の左端(橋の袂の丸)ここに全児童が逃げて津波に飲まれ
児童107人中90名が亡くなり。教員12名のうち11名が亡くなった
悲惨な現場という事です。
写真の「四角で示した場所」そこは裏山の斜面。
そこは中腹までしか津波が来ず、ここへ逃げていれば全員が助かっていただろうと。
わざわざ遠い「丸で示した場所」(高さ6メートルくらい)へ移動中に
全員が津波に飲まれ亡くなったと。
そして皮肉なことに「逃げていれば助かったあろう山の斜面」に津波で叩き付けられた
人が助かっているという事実からも、当日の行動が悔やまれる現場であると。

ここが、その斜面ですが。前には慰霊碑があり亡くなった方の名前が刻まれておりました。
”叩き付けられ助かった”斜面は写っている右端の伐採されていない斜面。
だから掴むものが出来て助かったという事ですが。写真の伐採された所。

橋の袂に逃げるか、この斜面に逃げるか地震の後に関係者で協議されたと。
斜面は低学年生では登れないと判断され、結果「橋の袂」に逃げて被災された訳ですが
今、伐採されて「ほんとに登れない斜面だったのか?」が検証されているそうです。

これが逃げて流された「橋の袂」(撮影は小学校の前から望む)。
この写真のすぐ左が「山の斜面」橋まで歩くより1/3程度の距離ですから悔やまれるでしょう。
そして、この橋は津波で分断され流された映像をテレビで何度もみました。

これが上空からの写真で「6の字」に見えた校舎。
回りは流されて何もありません。

校舎の前には慰霊碑があり、ここでもお参りの読経が響きました。
この写真の右手に回ると。

津波の痕跡が残ったままの教室が痛々しい。二階もこの状態でした。

この現場に立ってお参りしている最中も、校舎の両脇をダンプが絶え間なく走っており騒音で
読経がかき消されるくらい。観光バスが停車するにも注意があったくらいです。

そしてガイドさんの的確・明瞭な解説を聞きながら次の目的地「門脇小学校」へ。

写真の下が先日、私らがみたそのままの校舎。門柱も門扉もなく。
そこにあったのは段差のみ。

これが私が見た光景。テレビでもお馴染みですが、この校舎の三階の窓から
裏の高台の崖に机で橋を掛け渡って裏山に逃れたという、あの場所だそうです。

この校舎、海のすぐ近くですから。
流れきた重油と流木で3日間、燃え続けたということでした。
私の目測ですが校舎の正面側、1キロほど先に海が見えておりました。
その手間に見える防潮堤と思える壁が。それは
流され廃車となった車が、積み上げられ延々と壁のように続いているのです。
特にこの場所の車は校舎同様に焼却されいるので悲惨さが増します。

この前で祭壇が組まれお参りがされました。現在、当時のままです。

三階の時計まで海水に浸かった証拠に時計のサビが凄い。
そして私達がお参りしているすぐ横で。

「僕らは 負けない」と書かれた横断幕の前で子どもたちが野球をしている。
その姿には涙を誘われるものがあります。

そして、この校舎の両脇は墓地になっておりますが。
いかにも流れてしまった物を元の場所に戻しただけという積み方。

アップにするとわかりますが、どのお墓も傷だらけ。津波で墓石どうし、あるいは瓦礫がぶつかって出来た痕跡でしょう。

私も来週「父と母の納骨」をするに先週、墓石に戒名を刻んでもらったところなので
墓石が妙に気になった次第です。
余談ですが、何処の墓地も写真の様に「黒い御影石」が多く。
ガイドさんに聞いてみると、白い石よりも丈夫であるそうです。

ここから更に北上して女川・気仙沼まで足を伸ばしたかったですが日程の都合もあり。

引き返して「松島湾」まで戻って来ました。目的は遊覧船です。

何処の遊覧船も同じで餌を求めてカモメが付いてきます。

ただ我々が蒔いたのは餌では無く、写経。これを撒き出すとカモメの姿が消えた。
この写経用紙は水で溶ける紙が使われており害は無いですが美味しくは無いでしょう。
檀家信徒3.000人から預かってきたものです。

沖合に出た所で停船いただき船上でも合同のお参りがあり読経が響きわたりました。
でも、それが他の乗客にご迷惑になってはと遊覧船は貸切となりました。

このあとは一路、仙台空港へと戻ります。仙台バスのガイドさんのお陰で
町並みを眺めても事情がわかり、当時の惨状が目に浮かび。
そのガイドさんもまた被災者であり、自身の体験や助かった友人方々の
経験談をも交えて震災を語って頂き、有意義な車中となった事に感謝の旅でした。

そして仙台空港到着。午後5:30には飛び立つはずですが待つ間に真っ暗に。
ここ発着ロビーで3時間くらい待ちましたか。

アナウンスによると「沖縄からの便が保安上の問題で遅れる」と。ナンノコッチャ??
そこで役だったのがスマホ。Yahooニュースでトップに表示されたところでした。
※「那覇空港で手荷物にハサミ 検査で大混雑」
※はさみ1本、欠航続出 那覇空港大混乱
※那覇空港、禁止区域にはさみ 成田を通過
※手荷物にハサミ 再検査で2万人以上に影響

これで遅れていた理由がわかりました。人騒がせな方がいるもので。
お年寄りの方が「自宅に電話したけど、そんな事ニュースで流れていない」と。
スマホの画面を見せてあげたら、ハイジャックと勘違いされている様で。(^_^;)
テレビで流れない程度のニュースが伝わるのがネットのニュースですか。

そして次の心配は、あまり遅れると伊丹空港の利用時間に間に合わない。
伊丹の「発着は21:00まで」それに間に合わないと関西国際空港へ回る事に。
となると家に戻るのは日付が変わるな・・・と。心配でしたが。
幸運にも21:00丁度、伊丹に到着。
結果、姫路には午後11時到着。7:30到着の予定が3時間以上の遅れでした。でも
その御蔭で雨模様を逃れた様で、集合場所まで徒歩の私はラッキーでした。

そんなこんな、全て含めてが「旅の思い出」。
平日に2日間休むために調整が大変でしたが。
その苦労も忘れるくらい充実した旅となりました。
自身、泊まりでの旅なんて二十代以来になります。
泊まりの旅にでも参加しようと思えるまで、
長い道のりであったと感慨深気な旅でもありました。

実際に被災地に足を運んで感じたものは津波の怖さもさることながら
「避難の難しさ、状況判断」。(単純に避難場所を決めておけばよいものでは無い)
また被災地は今のテレビ映像では片付いて綺麗です。でもそれは
「片付けが終わっただけで、復興ではない」
遠い地の我々は映像で瓦礫が無くなれば「綺麗になった」そう口にします。
我々も更地を見ると「これから新しい街が出来る息吹」にさえ感じます。
でも被災地の方にとっての復興は街作りではなく「町並と生活が戻る事」
そのことを痛感した旅でもありました。


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