限界を感じる年齢

今日のニュースで「組織で働くことに限界を感じる年齢」という記事があり。
思わずクリックして見ておりました。
数日前の記事でも。「なぜ”働かないオジサン”の給料は高いのか?」という記事にも
思わずクリックした経緯があります。

記事に対する反論や共感という事では無く。タイトルにどきっとする年齢なのだ言う事です。(組織で働く人間ではありませんが)

「四十代」というのは人生の折り返し地点。そこで多くの人が悩むものなのだと。
「四十という年齢・折り返し地点」だから悩むのでは無く。
丁度そういう、悩む環境に置かれる年齢になっているのでしょう。

自身の40代の記憶は。三十代を病み上がりの健弱な身体で過ごしたせいか、四十代はゴルフも始めて日々、健康になることを実感した年代でもあり。同時に25年のテナント生活を終え、収入が激減した状態で介護生活に入った年代でもあります。
「四十代」とうのは肉体的に無理が利かなく成った事を感じ始めます。
また入社時(若い頃)お世話になった諸先輩の老化した姿を目の当たりにしたり。
両親の老いた姿に驚く年代です。
そういう姿を見て、自身も老いることを認めざるを得なくなる年代ですか。
そこで初めて「今後の人生・今までの邂逅・収入・健康・両親・子供」そういう事が浮かび
自分の立ち位置が全ての年代の中心に的な位置になっている。そう思い込む年代でもあります。

記事の中でも孔子の。
「子曰く、吾(わ)れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」
が取り上げられており。

これは私も二十代で「そういうものなのか・・なぁ〜〜」と読んだものです。
年齢ごとの理想の生き様を示した言葉であると思われます。言い換えれば
「三十には自立した人間になりなさいと」「四十で生き方に迷っているようではいけません」
「五十にして分をわきまえない振る舞いはいけません」。私はそういう風に取って生きてきた気がします。

今、52才ですから「天命を知る」年代ですが。言い換えればもう自分の限界・器のサイズ・客観的な立場。そういう物が大きく変わることが無いということで。今から脱皮してサイズ違いの人間を目指すには遅いという事です。現状が天が与えてくれたもと受け入れる年代なのかもと。

今の年代がどうであれ、それは過去の生き方の結果ですから受け入れるしかないでしょう。
私の場合は介護生活も終わり、今は独りを堪能しておりますが。普通だったら
今の年から介護生活に向かっていく年代。
それを四十代で向かえる事と五十代で向かえるのでは心の余裕が違おります。
六十代ならもっと余裕を持って優しく出来たであろうが
体力的にキツイものになっただろう。そんな事を考えます。

一般的には四十代というのは、まだ介護生活など巻き込まれて居ないだけに。
これからはじまるであろう不安、プラス「表題の悩み」。
ましてその時点で自身に解決すべき問題を抱えていてはストレスはピークに。

私の場合もそうでしたが四十代とは、そういう年代なのかも知れません。
経験から言えば「役回り」と割り切って、逃げずに降りかかる物には打たれる事に身を任す。
それが出来た事が一番の妙薬であったと思おります。
表題は自身の身の振り方に悩む年代とも書いてあります。
私の経験からは「動くしか無くなる環境下になれば自然に動くしか無くなる」そいうもので。
決して現状に満足が出来ないからと動いてはいけないと思おります。
現状に満足が出来ず動けば、次の現状も満足できません。
その連鎖が人間が大きくなるという事ですが残念ながら私は「天命を知る」歳ですか。

それはつまり四十代に代表される様な緊張感のある年代・・・
いや”緊張感を振りまく人”ですかね。もう対応する事に負担を感じます。
表題では無いですが接客というものに「限界を感じる」そんな歳ですか。

 

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