ネットの匿名性

2014.5.20片山被告の事が大きく報道されていたのですが。

最後は自殺を試み実行できなかったと。

「現実行動の幼稚さ・あだに」

「幼稚さ」という事で、そこには「良心の呵責」が存在しない。
自分ならば?そう考えるとおそらくは「後でその呵責に苦しむのが怖く」悪い事どころか。
商売人でありながら金儲けでさえ馬鹿正直すぎて適職では無い性格であると感じます。
情けない限りですが。でも性格に正直に生きてきたお陰で病気もしました。
でもお陰で現在、悩むことも無く”足を知る”という事を自覚でき、
それなりに悠々自適に暮らすことが出来ております。

でも性格は人それぞれ。「幼稚さ」というのも性格であります。

思い出すのはある四コマ漫画で、母親が子供に
「おやつの時間でも無いのにケーキを食べたのは誰!!」と叱り。
子供「僕じゃ無いよ」と。
でも、子供の顔は生クリームでベットリ。(^_^;)

四コマ漫画の親子の会話なら愛らしく、憎めない愛嬌のある子供です。
これに私の小学校の頃のあるシーンが浮かぶのですが。ある友達が先生に叱られた時。
まるで漫画の一コマのように両目に手を当てて
「うぇぇ〜〜ん!うぇ〜ん。ゴメンナサぁ〜〜〜い!もうしませぇ〜〜ん」とおどけて逃げていったら先生も笑ってしまって。「仕方ない奴だ!」と友達は叱られなかったことを思い出す。
私なら絶対真似出来ない行動で、ニュースを見てその記憶が鮮明に蘇った次第。
「それは良心の呵責など無いから出来る行動で」
私なら神妙な態度になるがゆえに余計に叱られる事になったであろうと。

問題は、その白々しい愛嬌の良さ。それを大人がやるとどうなるか。
嘘で塗り固めたら疑わないのが社会であると五十数年に生きてきて感じた事です。

「0〜100の真実の度合いがあり」。15しか無い事を50と言ったり。
100有る事を80も無いと言ったり。詰まりは”嘘”ですが。
これが「100有る事を”全く無い!」と言い切る人が居るのです。
では誰がやった?。と、なればそれは当然”全く無いと言う以外の人”。
つまりは嘘の張本人が除外されると、周囲の人が疑われて周辺が互いに疑心暗鬼になります。
ややもすれば、いつの間にやら「そういう人達」とくくられているのが世の常。
私はこの十年くらい、それに気づいたのですすが、そういう人達に疲れ果ててしまい、
徐々に、そういう人達とは自然に縁を切る流れです。
それどころか歳を取ると、人間関係の怖さが分かってくるもので全般的に
人との関わりから離れて行く傾向になるのは私だけでしょうか?

今回の片山被告、信じて助けてくれる弁護士を巻き込み裏切る事さえ平気だった訳で。
100を全く無いと言い放てば人は信じます。歳を重ねた人が言うと余計に。
そいう言う人は幼い頃から、嘘をつくことで自分が立場が良くなるのですから
その術はスポンジのように身に染みついて行きパワーアップすれば
悪いことである意識などなくなるでしょう。

私は昨日の報道を見て「やっぱ、何処にでも居るんだ。こういう奴って」というのが感想です。
それは性格です。そうならない様にしようとか、なってはいけませんと躾けることでも無いでしょう。持って生まれた物で”焼いても直らない”類いのもの。
もちろん焼いても直らない部分は、私にも誰にもある訳で良し悪しは言えない。

今回の事件はネットが舞台になった訳ですが。
一昔前はネットの匿名性は確固たるもので個人情報と守られるべき物。
そんな風潮がありました。しかし現在、その風潮は紳士的なものに変わりつつ有ると感じます。

2013年8月「2ちゃんねる個人情報流出事件」は記憶に新しいですが匿名性が強い余り
陰で暗躍する人の異常性には目に余る物があり。
その異常性を世論が押し流した結果で有ると感じました。
過去の匿名での暴挙は暴かれる風潮にあります。
痕跡は何年経っても残っているのですから、出すか出さないかだけでしょう。
「なんでも個人情報です」は通じない世の中になったのだと思おります。

現に昨日は米FBI、中国人民解放軍の将校5人を起訴⇒中国という事も報道されており。
もうネットは何でも有りの時代は終わった気がします。
インターネットが普通になってきたのが1995年頃ですから。
20年も経過して、衰退もせずに発展してきたインフラです。
特殊性は薄れ普通のインフラとなってくるのは当然の様な気もします。

昨日のニュース報道はネットに関わる者として興味深いものでした。

2011年6月サーバ引越で過去データの引越が出来ず新設です。