令和3年春期施餓鬼法要

本日は”お彼岸”ですからお寺の施餓鬼法要です。両親が亡くなってから欠かさず参加しております。最近では「それに行って何があるの?目的は?御利益は?」という意味不明な質問を受けることもありますが、分かりやすくいえば自己満足です。

強いて分かりやすい理由は運動とでも言いますか。普段は重い物を持ったり全身を動かすような作業は日常に無く、普段使わない筋肉を使うという意味でも意義があります。もう還暦ですから日々、筋力が落ちます。かといって筋トレ・ジム・マッチョなんて単語は無縁です。私には無駄な抵抗に感じますから実戦しても満足感は無いと思います。やはり自然な営みの中で運動していきたい事が望みです。

またお寺に居ると、生きていることに謙虚な方がばかり。無理をせず安堵感に浸れます。現世では欲剥き出しな人が多くウンザリする訳で自治会もしかりです。自治会長をやっておりますが楽しくはありません。真面目に取り組むほど苦情ばかり受けておりますから、電池交換メンテナンス受付開始の頃を思い出します。関係する事で”精神衛生上良く無い。良く無いことは継続したくは無く”。電池交換受付の場合は「同意確認、導入」で無茶振りする方をフィルターに掛けました。当然、売上は半減しますが。自治会は自分の物では無いですから売上半減という手段が執れないので辞任するのがベスト(勝手に辞任は出来ませんね)。何処の自治会もそういう傾向にありますが「自治会の発展・健全化」に向かっていない。「住民が過ごしやすい・楽な方向、つまり何もしないがベスト」という方向に向かっています。という事は適当な対応に変えれば喜ばれます。でも当選したらやるしか無く、罰ゲーム状態それが現状です。

お昼を頂いて昼からの参拝者の受け入れの準備をします。昨年から昼食を作って頂いているお年寄り方のリタイヤで、自炊によるまかないが難しくなり、弁当になっております。これも時代の流れですが。自治会でも今時、みなで炊き出しして振る舞うことなどありません。どころか弁当を取る、いえ集まる事がありません。集まる行事を中止していく傾向にすらあります。もちろんコロナの影響をありますが「コロナ後の世界」という事を考える必要があり。徐々に元に戻るという考えは甘そうです。

兎に角はお寺で過ごす時間は私に取っては息抜きというか、暖かさの中に包まれる時間ですが。そういう事を現世で言えば「生きる事、稼ぐ事を舐めている」とも言われます。個人的にはなにもそういう人が集まる友人・グループ・組織・団体に関わりに行く必要も無いだろうと、それが出来るならもっと商売人らしく生きていたハズです。