旅を振り返って

「今回の旅」は私以外は60歳以上の方ばかり。

お寺の檀家さんの集まりなので、そういう構成になるは当然でもあります。
50代で、そこに望んで参加する私が変わり者と言えます。。

年長者ばかりとはゆえ、誰もタバコを吸う人も無く。
車中アルコールを飲む者も無く。
旅館の夕食でもビールは出ますが酔う人も無く。食後、街に繰り出す人も無く。
部屋に戻ってから飲み直す人も無く、午後9時には消灯で全員が就寝。

普通、私の年代なら「そんな旅行の何が楽しい?」って思うのが普通でしょう。
ところが私の価値観では心安らぐ旅となりました。それは何故なのか?
そう考えると、そこには「価値観の押付・強要」なんてモノとは無縁の世界だからです。
一般社会にある競争心・妬み等の多くの煩悩に支配された心。
そいう執着から離れる事に努める人達との旅行と言えるのかもしれません。

一緒に居て心安らぎます。その世界はある意味、父が存命であった頃。
いえ元気であった頃には得られなかった感覚。
お寺に来だしたのは”親を亡くしてから”という人が多いのはそのせいか?

同年代での旅行なら、普通は何が起こるか分からない。
いえ何か起こさないと面白みも無く、本来はその破天荒さが旅の楽しみでしょう。

ただ私には楽しめる世界ではなく。
それは、この数年感に様々な人達と飲む機会がある度に感じて来た事です。
同年代は、ここまでのパワーで飲むのだ!という驚き。
30代から辿ってきた自身の人生が余りにも一般と違っていた事に起因するのでしょう。
心安らぐ世界には惹かれますが、そうでない世界には拒絶反応が起こるのです。
(でなければ”お寺の役”は、引き受ける事もないでしょうが。)

私が惹かれる世界は、私の回りから見れば、私の不甲斐なさであり。
見るに見かねて”私の根性の立て直し・肉食系への改造”に良く遭遇します。
もちろん善意であります。
しかし「如何に欲を滅して生きるか?」と模索して生きている者に
「欲むき出しの男らしさを身につけよ!」と説いている変な話ですが。(^^;)
まさか現代において、そんな人間が居るとも思えない様です。

それは角度を変えると価値観の変更を強要される事であり。
不安感の中で過ごすことになり、悩みの種になっていきます。
この十年、友人と接する事に距離を置いていたのが両親の没後
色んな友人と一緒に飲むように努めてから起こっている悩みであります。
そんな時の今回の参拝は参加するだけで心の整理と安らぎになりました。

一般と価値観がずれた生き方をするには苦労や困難が降りかかります。
流されて生きるのは簡単ですが自分を押し殺して振る舞うのも茨の道。
最近、そんなところから人間関係に疲れを感じていたのですが。
あまりにも自分が変わり過ぎてしまったが為の現象で、他人からは
私の内面、心の変化までは見えません。
最近、元気そうだしパワー全開!と解釈されても仕方が無い。
また、それに応えようとする自分もそこにあります。

でも価値観の押しつけを受け入れてしまうと、そのように振る舞うしか無く。
対象者からは執着の対象となり振り回される事に繋がります。
押し込まれた心はトラウマになり腐敗し心は病んで行きます。
病んだ心からは様々な病気が出ます。

これは特殊な病んだ世界の話では無く、人が集まって利益を求めた瞬間から
そこには生存競争が発生します。強いモノが勝ち弱いモノは潰される。

そして病んでしまったら全て自分の責任です。
(子供は肌で感じても声に出来ません、大人社会では根性の有無でしょうか)
今の時代そういう時のために心療内科があります。
でも本当に治すのはお医者様では無く自分である事は経験からですか。

その経験は父が亡くなるまで自身の生身の身体で体験した負の遺産です。
それが人生そのものであった気がします。
それを、この歳になって、また再現するのは恐怖でもあり愚かすぎる。

でもそれは自分が作った因縁で再度、自分に降りかかるのは自業自得。
誰のせいでも無い訳です。これは生きる為の修行と考えましょう。

現在は”トラウマ・心の病”なんて単語は若者が普通に使う時代です。
こういう事を書いても、理解する人は多いでしょう。
先の善意という事も”共依存”という単語を理解しないと本質が見えてきません。
こういう事は強要されては入って来るものでは無いでしょう。
それは多くの人が認識するところです。
もっと大事なのは自身も他人に同じ事をする危険性を秘めている事の認識と
他人を「追い込まない」つまりは伝波させない配慮ですか。

私が好んでいる世界は商売人としては終わった生き方かもしれませんね。

最近、お寺やお坊様と接する機会が増えて学んだ事があります。
お寺やお坊様・社寺仏閣と言う対象はお医者様ではありません。
よってその機能を求めてもいけません。求められても困るでしょうが。
接することで癒やされる存在と言う事でしょうか。
その癒やしと言う恩恵は与えて頂くモノでは無く、自身で感じ取るモノ。
感じられる自分を育成する作業が必要になります。

その源は自身が体験してきた苦しみや息苦しさがあってこそ。
良きも悪きも親や先祖から伝波され受け継いだものであり
苦しみも悟りも自分だけのモノでは無いと言う事でしょうか。

さて旅行も終わり、切り替えて娑婆の世界にまみれて修行ですね。

2011年6月サーバ引越で過去データの引越が出来ず新設です。